2015年8月30日日曜日

刺さりつくような日差しの中、白球を追いかけ、熱闘を繰り広げる球児たちにより、日本という国が活気に包み込まれる。その傍ら、ラグビーを嗜む者たちは、灼熱の陽炎走るグラウンドに横たわり、この苦行とも言える忍耐の季節を、秋、冬に咲き誇るための成長の時期と位置づけ、踏み越えてゆくのだ。夏、この季節というのはどうしてもラグビーの存在感が薄れてしまうが、この季節が巡ってくるたびに思うことがある。
なにゆえ、なにゆえ俺はこんなしんどいことをしているのか。やはり大学生というのはキャンパスライフにおいて選択肢が多い分、その中でラグビーを選んだ自分にしばしば疑問を感じることもある。同じ年代の大学生の夏というのは、バイトをして金を貯めて、週一、二のサークル活動をこなしたあと男女混合の飲み会なるものを嗜み、異性と抱き合い妖艶な時を過ごしたりする。そしてその日常に飽き足らず、バイトで貯めたお金を使ってディズニーランド、ユニバ、はたまたグアムサイパンなどリゾート地に赴く者もいる、というのをTwitterで見かけるたびにとてつもない虚無感にかられる。なんとも無駄のない、充実したライフスタイルではないか。一方私のほうは、必死に貯めて6万という大金を手にしたどり着いたさきは、長野県。電車でサイパン4泊59800円〜というHISの広告を見つけた時はさすがに涙が出そうになった。夏なんてとくに凄まじい。なにが好きでこんな汗にまみれた屈強な男たちと肌を密着させ、こすりつけあい、抱き合うのかと。この熱気のせいで、え?!このひとが?っていう人がとんでもない異臭を放ったりするものだ。突然降り出したゲリラ豪雨に打たれながらラックのなかで倒れ伏している時なんかは、俺いったい、なにしてんだ、とさえ思う。いちいち周囲の人間と自分の状況を比較している時点でラガーマンとしては半人前であることはわかっているが、それでも今までこの競技をやめる、という決断に至ったことはない。それはどうしてだろうか。それは本ラグビー部監督の佐々木先生が私たちが入部した当初におっしゃったことに答えがあるのではないか。
社会に出たら、君たちは必ず評価される、なぜか、それはラグビーとは人生そのものだからだ。
ボールという信念を持ち、壁に当たり、倒れ伏し、立ち上がり、というのを繰り返し繰り返し、ようやくゴールにたどり着く。決してボールを前に投げるなどという甘い道はない、苦難に苦難を重ねてゴールにたどり着くその有り様は、まさに人生そのものなのだ。
また、この競技の精神が、日常に大きく活かされる場合も少なくない。たとえば、ラグビーというのはできるだけ立っているという意識が重要なのである。寝ているプレイヤーは死んでいると見なされプレーができないからである。そのため見方が自分をサポートしにきてくれるまで立っていなければならない。この精神は同様に髪の毛に関しても言えることである。私が最近短髪にしたのも、まさに髪の毛ひとりひとりに立つ意識をもたせるためである。長髪にすると、髪の毛からすればひとりひとり長いもんだから自分は寝ても大丈夫だろう、と倒れ伏してしまう。そうなるとその倒れたところから地肌がおもむろになってしまい情けない絵面になってしまう。短くしてしまうと一見単純にボリュームが減ってしまうのではと思うかもしれないが、髪の毛の場合、逆である。短くすると、ひとりひとりに俺が頑張らなくてはという想いが生じ、立つ意識が生まれる。その短いながらも必死に立ち続け、ボリュームを増やそうとする様はまさにラガーマンである。
このほかにも、ラグビーという競技が日常の様々な面で活かされるシチュエーションというのは多々ある。なるほど、これほどまで人生になぞらえたスポーツならば、やめることができないのは自然とうなずける。ということで今夜はほんの少し、ラグビーの知られざる魅力というのを掘り下げてみました。
次回は最近女にうつつを抜かしておりましたが、ようやく夢から覚め多大なる虚無感に浸り続けている牧野君のお話を聞いてみたいとおもいます。

0 件のコメント:

コメントを投稿